田園調布せせらぎ館とせせらぎ公園
田園調布せせらぎ公園・せせらぎ館は、東京都大田区の多摩川園跡地に整備設置された公園と建物です。
敷地内のせせらぎ館に大田区立図書館の分館となる図書サービスコーナー、カフェ、多目的室、集会室を備え、多目的広場、体育施設など、大田区民の地域文化活動の拠点として整備された体験学習施設であり、休憩施設となっている。
2006年(平成18年)の開園です。
東急東横線
東横線(とうよこせん)は、東京都渋谷区の渋谷駅と神奈川県横浜市西区の横浜駅を結ぶ東急電鉄の鉄道路線です。
路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは赤色、路線記号はTY。
田園都市線と並ぶ東急電鉄の基幹路線であり、東急電鉄の前身の一つである東京横浜電鉄が開業させました。
通勤路線であると同時に、路線名が表すように東京と横浜という2つの都市を結ぶ都市間鉄道路線(インターアーバン)でもある点が特筆されます。
六郷用水
六郷用水は、多摩川の水を和泉村 (現在の狛江市和泉) で取り入れて、 世田谷をへて大田区に流れております。
この間の大蔵村で用水の水量を 調整し、余分な水を野川を通して多摩川に落とすために、洗堰という施 設が設けられていました。
本流は光明寺下の矢口村の南北引分けで、南堀 (蒲田六郷 羽田方面) と、北堀 (池上 大森方面)とに分かれ、六郷領のそれぞれの村に分水され、灌漑用水として利用されました。
出典:六郷用水流路図 看板
ジャバラ水車
ジャバラ(足踏み水車、踏車ともいう)と呼ばれる揚水用水車の模型です。
かつては、六郷用水流域の水田においても、早春や干ばつ時の水が少なくなった時に、羽根を足で踏んで回転させ、田に水を揚げていました。(実際に使われていた水車とは若干異なります。)
東光院の脇の水路にあります。
密蔵院
真言宗智山派の寺院です。
開創の年代は不明ですが、寺伝では、慶長(1596年から1615年)末期に火災で焼失したとあります。
弘法大師座像・大日如来座像(だいにちにょらいぞう)等の区指定文化財があります。
しだれ桜は昭和40年(1965年)頃仙台から移植されたものです。
丸子の渡し跡
今は縦看板だけ
渡し守子の「もりこ」 がなまって「まるこ」になったとも言われています。
丸子の渡しは、沼部(現・田園調布本町)と上丸子 (川崎市中原区)とを結ぶ多摩川の渡しで、古くは 「
まりこのわたし」ともいった。
この付近は、すでに鎌倉時代の文書に「丸子荘」 と記載されたり、また文明18年(1486)から翌年にかけて、道興准后が京都から東国方面へ旅行 した際の記録である「廻国雑記」に「東路のまりこ の里に行かかりあしもやすめずいそぐ暮れかな」と 詠まれており、中世以来の渡し場と推定される。
江戸時代になると、中原街道が整備され、物資の 搬入などに利用された。昭和9年(1934) 丸子橋 が完成するまで、
江戸東京の玄関口として大きな役割を果たしていた。
出典:丸子の渡し跡縦看板
多摩川浅間神社
源頼朝とその妻政子にゆかりある神社です。
当神社は今から八百年前の創建と伝えられております。
鎌倉時代の文治年間(1185~90)、右大将源 頼朝は、豊島郡滝野川松崎に出陣しました。夫の 身を案じた妻政子は、後を追ってここまで来まし たが、わらじの傷が痛み出し、やむなく多摩川畔で 傷の治療をすることになりました。
逗留のつれずれに亀甲山へ登ってみると、富士 山がじつに鮮やかに見えました。富士吉田には、自分の守り本尊である「浅間神社」があります。
政子は、その浅間神社に手を合わせ、夫の武運長久を 祈り、身につけていた「正観世音像」をこの丘に建て ました。
村人たちはこの像を「富士浅間大菩薩」と呼び、永く 尊崇しました。
これが「多摩川浅間神社」のおこりです。
出典:多摩川浅間神社パンフレット
神社から眺めた多摩川と武蔵小杉のマンション群
多摩川台公園・亀甲山古墳
桜、あじさいなど四季折々の花や自然林の道の散策が楽しめます。
多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたって展開しています。
多摩川八景見晴台、亀甲山古墳、宝来山古墳、多摩川台古墳群、海南亭、水生植物園、四季の植物園、あじさい園、ふたつの広場などがあります。
出典:大田区 ウェブページ