~横浜大空襲の日~ 1945年5月29日の悲劇
井上精司(座間市、県央地区ネット)
人生の半ばを越えて、振り返る記憶の中で、今だに脳裏に焼きつき、私にとって忘れることの出来ない一日がある。
その日は、昭和20年5月29日、太平洋戦争末期の横浜大空襲の日である。
ラジオから流れる敵艦載機
600機襲来にうろたえる!
不安と緊張!
B29爆撃幾と艦載機は、横浜の中心部を焼夷弾の雨を降らせ、中心部を焼き尽くし、罹災者31万人余、投下した爆弾の量は、東京大空襲の時の1783トンの1.5倍にもなる巨大な量であったと記されてある。
その朝、NHKのラジオから流れた
「関東部軍情報!関東部軍情報!敵艦載機600機は、関東南部に襲来せり!」のニュースに、何か、いつもと違う不安と緊張を覚えた。
津久井郡のお寺に疎開
当時、私は、七才で、横浜市神奈川区二ッ谷に住み、(国鉄‐東神奈川駅近く)国民学校最後の一年になったばかりであった。五年生の姉と三年生の兄達は、戦局が悪くなり、日増しに本土への敵幾の襲来や爆撃が激しくなってきた為、姉と兄は、学年のクラス毎に、山梨県に近い、津久井郡の田舎のお寺に疎開していた。残ったのは、父母と二才の弟と鶴見区の空襲で、焼け出されて、家に来ていた親戚の叔母とその息子の中学1年生だけだった。当時、学校は殆んど、戦地からの負傷者を収容する為の陸軍病院に早変わりし、私の学校は、近くの空き地に、にわか作りの仮設した四教室だけだった。
学校は、陸軍病院へ早変わり
その日は、朝から良く晴れていた。朝、学校へ行ったが、空襲警報が出された為、直ぐに帰宅するように言われて、家へ戻った。
間も無く、近所で人の声が騒がしくなり、晴れているのに、ザー!と、雨が降るような音に驚き、玄関から空を見上げ時、軒先の青空の中に、無気味に数珠繋ぎになった敵機が一列に連なって飛んでいた。これは、ただ事ではないと直感した。
突然、家の前の方で、大きな爆弾の炸裂する音が響いた。
その直後、家の裏の方で、大きな爆弾の炸裂する音が響いた。
全身火ダルマになった男の人が走り寄り、家の玄関先に水を一杯はってあった防火用水の中に、全身で、飛び来んだ。
その人は、中学生の隣の三浦さんのヒロちゃんで、顔や唇は、焼夷弾でやられ、火傷で、赤紫色にただれ、皮膚は、めくれ上がっていた。
逃げろ!の声が、
あちこちから
「逃げろ!」と、大きな声か聞こえた。「精ちゃん!こっち!」
家に来ていた親戚の兄さんがいち早く、逃げる方向を示してくれ、その後を夢中で追いかけた。裏へ通じる路地の板塀は、爆風で倒れ、通り抜けることは出来なかった。隣の三浦さんの玄関先の戸は、道路へ吹き飛ばされ、ガラスは、メチャメチャ、中からもうもうと煙が吹き出し、誰かが倒れていたが、後で、父の話によると、その人は、三浦さんのご主人で、片足は、付け根から吹き飛ばされ、その日に死んだと言う。
焼夷弾のガソリンで、 道路は
燃え上がり、逃げ惑う!
広い国道は焼夷弾のガソリンで、あちこちで燃え上がり、頭から布団をかぶりながら逃げ惑う人で溢れていた。家々は、至るところて焼けおり。一面火の海だった。
バスや電車も、燃えていた。
市電は、道路の真ん中の軌道を外れ、土手の縁まで、飛ばされていた。
川には、沢山の焼死体が浮かぶ
良く魚取りで遊んだ川には、沢山の焼死体が浮いていた。
火傷で、男女の区別もわかず、キュービー人形のように、ピンク色に膨れ上がっていた。
途中、真黒になった焼死体の山の上を裸足で乗り越え、横浜港に近い大黒町の方迄逃げた。
海の上では、木造船が幾艘も、燃えていた。
幸いにも、未だ、焼けていない造船所に避難させて貰い、助かることが出来た。
母は、くすぶる造船所の屋根の消火で、煙りで目をやられた作業員の痛みを和らげるため、母乳を与え、ここが焼けるようだったら、覚悟して、海に入ると言っていた。
午後、家の近くまて、戻ったが、一面、焼野原で、跡形も無く、辺りは、燻る煙で、夕方の様に薄暗く、真黒な入道雲が湧き上がっていた。吹き飛んだトタン屋根が電線に引っ掛かり、カラカラ廻り、電柱には、まだ、赤い火が消えずに残っていた。
仲良しだった三浦さんのヨッチャンも、本間さんのミッチャンも、その家族も、そのほか、沢山の人たちも焼け死んでしまった。
あの5月29日は、今だに忘れることは、出来ない。
その時代の政治の歯車のもとで、生きたくても、生きられなかった人達が数多くいたことを忘れては、ならない。
すべてを否定する悲惨さ、残酷さを思う時、為政者の責任は、限り無く重い。
どんな理由が有ろうとも、戦争をしては、いけない。